知っていますか?

大阪市中央公会堂は個人の寄付で建てられた建物だった。


類を見ない美しさを誇る中之島のシンボル、大阪市中央公会堂は、
義侠の相場師と呼ばれた 岩本栄之助氏が
私財100万円(現在の50億円)を投じて大阪市に寄付した建物だった。

当時一流の建築家15名を集めた設計コンクールの結果、
早稲田大学教授・岡田信一郎氏が一等に選ばれ、
東京駅の設計で有名な辰野金吾氏と大阪工業大学の創始者片岡安氏が設計に当たった。
ネオルネッサンス様式の中央公会堂は大正7年(1918年)11月に完成。

竣工後、市民に公開したところ、
日本一の公会堂を見ようと3日間で約10万人が訪れた。

平成14年、再生修復後、重要文化財に指定され、永久保存されることになった。 


中央公会堂はこんなところ

義侠の相場師 岩本栄之助
1916年(大正5年)、中央公会堂の完成を見ることなく39才の若さで他界  

  
北浜の相場師でもあり、大阪電燈(関西電力) の常務取締役、
京阪電鉄の取締役、大阪商工会議所の議員
大阪株式取引所仲買人組合の委員長だった岩本栄之助氏。

1918年(大正7年)11月17日に開館した当時の中央公会堂。

岩本栄之助 略歴
明治10年4月2日生まれ。
大阪市南区安堂寺橋2丁目で両替商を営んでいた岩本家の次男として生まれる。
大阪市立商業学校(現・大阪市立大学)を卒業。日露戦争では児玉源太郎の副官を務め、
陸軍中尉となり終戦後、家業の株式仲買人となる。熱狂相場の極点と言われた狂瀾怒涛の時代に
大成功を収めて仲間を救い、「義侠の相場師」「北浜の風雲児」と騒がれ、一躍日本中に知られる存在となる。
明治42年、大阪の代表と して渡米実業団の一員の選ばれ、
一流の実業家が勢揃いする中、33才という若さで日本代表の一人として渡米する。
米富豪の、公共事業に財を投じ遺産を慈善事業に寄付する行為に感銘を受け
帰国後、私財100万円(現在の50億円)を投じて大阪市に中央公会堂を寄贈。

大正5年、株式相場で巨額の負債を抱え、
10月22日、中央公会堂の完成を待たず
ピストル自殺を決行。
享年39才。

「その秋を またで散りゆく 紅葉かな」 岩本栄之助が読んだ、辞世の句である。

 


作品紹介

「愛が降る街」
〜中央公会堂の父・岩本栄之助の夢〜

岩本栄之助氏の人生をミュージカル化
平成16年度文化庁芸術祭参加公演/大阪府文化祭参加公演


「愛が降る街」はSHOW-COMPANYのオリジナルミュージカル

「母親に言われたんや。
寄付するんやったら今まで以上に腰を低くうせなあかんてな。
今まで一回してたお辞儀は二回しろ。 
二回してたお辞儀は五回しろてな。

「自分で選んだ事やったら人を恨まんでええやろ。
失敗してもなにしても人を責めんで済むやろ。
 誰かを恨んだり責めたりしながら生きるなんて一番つまらん人生やからな。」

オリジナルミュージカル 「愛が降る街」の台詞より

本作品は、岩本栄之助氏が命をかけて寄贈した美しい大阪のシンボル中央公会堂に、たくさんの人が集い新たな夢を広げられますようにとの願いを込めて創った、SHOW-COMPANYのオリジナルミュージカルです。
「愛が降る街 」岩本栄之助のセリフより抜粋

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